「キリストのもと」 05.08.07
使徒言行録 4:1〜22
ペトロたちは、そうそうたるユダヤの指導者たちに囲まれた議会で、
指導者たちが驚くほどに大胆に語りました。
足の不自由な人がイエスさまによって癒されたことを語りながら、
そのイエスさまによって、自分自身が受けた救いを語りはじめました。
自分が味わっている救いの恵みに心を奪われていたからでしょう。
「ほかの誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われる
べき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
(12節)との言葉は、様々な信仰や救いを調べ、比較検討した結果の
言葉ではありません。
イエスさまの救いを心の底から喜んでいるゆえに、心の底からあふれ
出てきた言葉です。比較や攻撃の言葉でなく、喜びを証しする言葉です。
救われたことを心から喜んでいる時に、攻撃的になるとは思えません。
ペトロは、イエスさまの一番弟子のようにして、イエスさまと過ごしながらも、
立ち上がれないような深い挫折を経験しました。そこから、立ち上がれたのは、
自分自身のやり直そうとする意思、決意、気力などによってではありませんでした。
自分では立つことはできませんでした。
ペトロが立ちあがれたのは、十字架にかかり復活したイエスさまとの出会いが
あったからです。罪、もろさ、不甲斐なさ、弱さ、頼りなさ…、それらすべての
マイナスを担って十字架にかかり、罪と死を克服したイエスさまが、立ちあがれ
ないでいたペトロと出会い、もう一度弟子として立たせてくださいました。
ペトロは、足の不自由な人が癒された出来事を通して、自分自身が立てる
ようにしていただいたことを、考えざるを得なかったでしょう。
だから、12節の喜びの言葉が、あふれ出ました。
イエスさまによって救われた喜びがペトロを捕らえていました。
それは、他のものは目に入らないほどの喜びでした。
自分が救われたことに心を奪われていたいのです。
そこにペトロのような堂々とした歩みが生まれます。
聖餐は、自分が救われていることの目に見える印です。